眠る、眠る、そして眠る

日記と内省、そして睡眠

準急(1/11日記)

準急に乗って実家から帰る。経路検索では途中で特急に乗り換える経路が出てくるが、あえて準急に乗り続ける。準急は空いている。ぎゅうぎゅう詰めで立って乗る特急で30分と、ガラガラの準急で座って移動する50分では準急のほうが時間が短く感じさえする。あえて準急を選ぶことで、余白が生まれる。それは時間的にも、精神的にもそうだと思う。余白は与えられるのではなく選び取るもの、作り出すものなのだと最近はよく思う。余白のぼんやりとした思考が、疲れた脳に安らぎをもたらしてくれる。

 

余白が大事とか無駄が大事とか、いつもそんな結論になっている気がする。文学部出身者の悪いところかもしれない。

初詣と瞑想(1/3日記)

初詣に行った。10分ほどの時間だったが、何もせずにじっとしていると、感覚が研ぎ澄まされてくるような気がする。顔に当たる風や空気の冷たさ、お賽銭の投げられる音をより意識する。神社の静謐さは、その神性によるところが主として考えられるが、他に注意が移っていた精神を1点に集めることによる効果もあるのではないだろうか。

これは瞑想の状態に近い。何よりスマホから離れられるのが1番大きい。今の生活において、スマホから離れられる時間はそうない。拡散する精神を再集結させることが定期的に必要なのかもしれない。

これからときどき瞑想をしよう、と思った。

箱根駅伝(1/2日記)

例によって昼前に起きて、テレビに映る箱根駅伝を見ていた。昔はいったいこれの何が面白いのかと思っていたが、終盤の劇的な追い抜きも見応えがあり、駅伝を面白いと思える年齢になってきた。老化を実感する。それはつまり、自分の人生においてプレーヤーとして活躍することより、他者の活躍を見ることの方が楽しくなったということではないか。ぼんやりと一日中駅伝を見ている家族が苦手だった、そんなことをしても何も自分は変わらないのにと。自分で何かすることを楽しむのではなく、他者の活躍をただ見る。それはまだ嫌だと思う。自分がたとえ少しでも活躍したいと志向すること、他者の活躍を応援すること、そのどちらも捨てずにいたいと思う。

寝正月(1/1日記)

お正月は寝過ぎてしまう。普段の疲れがまとまって出たのか。寝てゲームして終わる、大学生の春休みのような日だった。自堕落な日もたまには必要だと、自分を納得させる。

こうして昨日の日記を朝に書いているが、日記を書くタイミングはいつが正解なのだろうか。案外翌日朝に書くのも、無駄な内容を忘れることができていい気もするが、自分がここに書いていることはすべて無駄にも感じる。無駄を削ぎ落として洗練させることと、無駄を愛すること。社会の中では難しいかもしれないが、自分は無駄を愛していたい。

紅白とサカナクション(12/31日記)

紅白にサカナクションが出ているのを見た。前に出たのは何年前だろう。嬉しかった。

少し前、NHKのドキュメンタリーで山口一郎さんの闘病記を見た。これほどの才能を持つ人でも闇に呑まれてしまうのか、むしろ才能があるからこそ、より高みを目指してこうなってしまうのだろうか。

「さよならはエモーション」の中に、「夜を乗りこなす」という歌詞がある。これが彼の状況に一番合うように感じた。たとえ克服できないとしても、明けない夜があるとしても、夜を否定せずうまくやっていく。それが一番よい夜との向き合い方なのかもしれない。

散髪屋の待ち時間(12/27日記)

ものを考えるには時間が必要である。

そんなことも日々の忙しさによって忘れてしまっていた。

散髪屋での手持ち無沙汰な待ち時間、いつもならスマホWikipediaを開き、きっと一生使わないであろう知識を蓄えるところだが、あいにく通信制限にかかって使い物にならない。だからぼんやりと思考していた。こういった時間を蔑ろにしてはいけないと、最近感じるようになった。ずっと通信制限でいいくらいだ。

昔は散髪屋や病院で、虚無を見つめてじっとしている人々を不思議に思っていた。他にすることはないのだろうかと。でも、すべきことなど何もなかったのだ。学生時代にニヒリズムにのめり込んだこともあったが、すべてが無意味で、何かをすることも無意味であるならば、何かをしないことも等しく無意味だったのだ。そのどちらにするかは、自分の好きに選び取っていい。その認識に至ったとき、生きるのが少しだけ楽になった。

 


ものを書くということは難しい。

頭の中でよい思考ができたと思っても、文章にすれば大したことではなかったことに気づく。世に出ている文章が生み出されるまでの苦労はどれほど大きいのだろうか。